青春シンコペーションsfz


第2章 機械仕掛けのピアニスト(4)


「お断りします」
エレベーターが到着し、扉が開く前に彼女が言った。
「は? 俺の誘いを断るなんて信じらんないな。他に付き合ってる人でもいんの?」
開いた扉に手を掛けて、彼は言った。
「あなたにそのような事をお答えする義務はありません」
憮然として言うと、彩香はエレベーターを降りた。
「待てよ」
響が後を追う。
「俺、天才なんだぜ」
先を行く彩香が思わず足を止めて振り向く。
「それで?」

彼はまだカラーリングをした髪を逆立て、ラメ入りの上着を腰に巻き付けたままだった。
「そのまま外に出るつもり?」
「俺、アーティストだし……。専用車が迎えに来るからね。別に電車乗る訳じゃないし……」
目元にはまだ、きついメイクが残っていたが、瞳の奥は澄んでいた。
「もっとも、注目されるのには慣れてるから、別に気にしちゃいないんだけどね。天才の宿命って奴」
観葉植物の大きな葉が、彼の足元に影を落とした。
「自分で自分の事を天才だなんて言う人、信用出来ないわ」
彩香が言った

「天才が天才と言って何が悪い訳? 誰も俺に敵わないんだぜ」
「そうかしら? 少なくとも、ハンス先生には……」
「ハンス? 誰?」
興味津々で彼が訊く。
「ハンス・D・バウアー先生の事よ。幻の天才ピアニストと言われている」
「幻? 何だ。それってつまり無名って事じゃん」
軽く息を吐いて薄く笑う。
「でも、彼の実力はショパンコンクールで優勝したフリードリッヒ・バウメン先生も認めてらっしゃるのよ」
「バウメン? ああ。確か1度聴いた事あるよ」

彼はガラスに映った自身の髪の乱れを軽く撫でつけて言った。
「テクニックだけで、てんでつまらない演奏するドイツ人だろ?」
「そんな事……」
彩香は反論しようと何か言い掛けた。が、響がそれを遮った。
「そいや、あんたの演奏も硬いよな。もしかしてバウメンの弟子?」
彼女が頷く。と、彼は低く鼻で笑った。
「まったく。これだから困るんだ。多くの奴が誤解しててさ。音楽はテクニックさえあればいいってもんじゃない。技術だけじゃ曲は完成しない。深い洞察と感情のバランス。作曲者の意図を汲み、それを巧みなまでに再現出来る実力のある奴だけが本物なんだ」
彼は熱く語った。

「そんなの当たり前の事じゃなくて?」
彩香が言う。
「そう思うか? でも、そんな魂を持った演奏が出来る奴は世界にも数える程しかいない。俺が見て来たところでは、バイオリンでは、フランスのパトリック・シェルモ。ピアノではハンガリーのアントニー・ルーク。そして……」
響はそこで大きく間を取った。
「あなたならそれが可能だとおっしゃるの?」
「もちろん」
響は自信満々に答えた。

「ならば、やはり一度ハンス先生の演奏を聴いてみては如何? その後でもう一度同じ事を言えるかどうか、伺ってみたいものだわ」
が、そんな彼女の言葉を受け流し、響は大きな窓の向こうのファン達に手を振った。それから、ゆっくり彩香の方に顔を向けて言う。
「どのみち時間の無駄だと思うけどね。まあ、いいや。それで、そのハンス何とかって奴はどっかでコンサートとかすんの?」
歩き始めた彩香を追って、響も歩んだ。
「10月からバウメン先生とご一緒にツアーをなさる予定よ」
「10月? それは残念。俺、9月の末からヨーロッパツアーなんだよね」
「そう。それは本当に残念ですこと」
エントランスを出た彩香は迎のリムジンに乗り込むと速やかにその場を去った。


番組放送直後から彩香の人気は急上昇し、ネットの書き込みや雑誌の取材も殺到した。
ハンスの家でもリビングの電話が鳴りっぱなしで、レッスンに支障を来たす程だった。しかし、井倉がコンクールに優勝した時とは違い、専門誌というよりはスキャンダラスな芸能情報を扱った週刊誌の方が多かった。

その日の午後、井倉は運んで来た紅茶のカップをそっと彩香の前に置いた。
「彩香さんの実力があるのは当然だとわかっていましたけど、早弾きでノーミスなんてすごいですよ。チャンピオンも気の毒でしたね」
「そうかしら? たまたま運が良かったのかもしれなくてよ。1曲は練習していた『トルコ行進曲』に当たったのだし……」
「そんな事ありませんよ。彩香さんの方が何倍も良かったです。花沢って人も、一応音大の卒業生なのでしょう? その割に表現が甘かったし、もっとも、これは早弾き対決なのだから正確な打鍵で判定されるんだろうけど……」
「あら、あなた、いつから人を見下すようになったの? 仮にも彼女はわたし達より先輩なのよ。もし、彼女に敗北の要因があるとしたら、今は現役じゃないという事かしら。タレントとしてのお仕事が優先されているのでしょうし……」
「そうですね。すみませんでした」
井倉が言った。

「そんなの関係ないですよ。いくら専念していても実力がなければそれまでです」
電話を終えて来たハンスが微笑しながら辛辣な事を言った。しかし、考えてみれば、それは仕方のない事なのだと井倉は思う。ハンスは誰よりもハードな仕事をしているのだ。それにも関わらず、ピアニストとしての腕の衰えもない。実力とはそういう事なのかと井倉は恐れさえ感じた。
「そうそう。井倉君、フリードリッヒとも話したんだけど、ちょっとこれを聴いてみて」
ハンスが差し出したのはアントニー・ルークのCDだった。
「ルークが弾くリストは定評があるからね。参考になると思うよ」
「はい」

――そんな演奏が出来る奴は世界にも数える程しかいない。……ピアノではハンガリーのアントニー・ルーク

彩香は響の言葉を思い出した。そして、その実力は彩香自身も実際にヨーロッパで耳にしていた。まだ幼かった彼女の心を捉えて放さなかったピアニストの一人がそのルークだった。
「井倉、頑張りなさい」
彩香が言った。
「あ、はい」
井倉は驚いてその顔を見たが、彼女はすっと席を立って行ってしまった。


アントニー・ルークが弾くその曲はまさしく聴いていてため息が出るような美しさだった。
「なんて繊細で華やかで、それでいて悲しいまでに切ない調べ。どうしたらこんな風に奏でられるのだろう? いったいどうしたら……」
地下室のオーディオルームで降り注ぐ霧のような旋律を、井倉は何度も体感し、体の隅々まで満たすように浸った。
「惜しいな」
背後からハンスの声が聞こえた。振り向くと、師は真面目な顔をして呟いた。
「この演奏、1カ所だけ微かな濁りがある。それに、左手の4の指、調子が良くなかったのかな? 少し歯切れが悪い気がします」
今更ながら、ハンスの洞察力の鋭さに、井倉は感嘆した。
(そんな事、言われるまで全然気がつかなかった)

「まあ、人間がやる事だから、完璧な演奏という訳にはいかないか。あのルークでさえこうなんですから……。録音なんかしたら、あとあとまで残ってしまうのが怖いですね」
それで、ハンスはレコーディングを拒んでいるのだろうかと井倉は思った。それだけ完璧を望んでいるのかもしれないと……。
「本当は生で聴けたら良かったのですが……。これは彼が最後に録音した物で、『ため息』はこのアルバムにしか入っていないんですよ」
ハンスは少し落胆したように言った。
「最後にって、でも、ルークってまだ若いんですよね?」
「若いと言ってももう50代でしょう。僕は子どもの頃会いましたけど、その時既に30は越えていましたから……」
しみじみとハンスが言う。

「お会いした事があるんですか?」
「父はピアニストだったので、いろんな音楽家が来ていたんです。ルークはやさしくて感じのいい人でした。僕を抱っこしてくれた事もある。でも、何故か5年前、突然演奏活動を引退してスイスの別荘に引きこもってしまった。これを最後の録音にして……」
「そうだったんだ。知りませんでした」
音楽業界の情報を井倉はほとんど把握していなかった。もっとも、ハンスに拾われるまでは生活費と学費のためバイトで時間は潰れ、雑誌に目を通す時間もなかった。ましてやそれらを買う余裕も……。たまに図書室を利用する事もあったが、参考資料に目を通すのが精一杯だった。
「実に惜しいですよ。リストを弾く者なら、恐らく彼の右に出る者はいないでしょう」
ハンスがそこまで言うのなら間違いないのだろうと井倉は思った。それでも、その演奏は完璧でないのだと彼は言う。

「曲も生き物ですからね。その時のコンディションが大きいです。温度や湿度、ピアノの状態、弾き手の体調。すべての条件が揃うパーフェクトな演奏なんてそう簡単に出来るものじゃない。いや、あり得ないと言ってもいいくらいなんです」
ハンスはそう言うとトレイからCDを取り出してケースに戻した。
「本番では、どのピアニストだってベストを尽くす。それでも満足の行く演奏になる確率は限りなく低い。まあ、僕は大抵上手く行ってる方ですけど、それでも稀には満足行かなかった演奏会もありました。でも、そういう時でも自信満々に見せなきゃ駄目なんです。自分で自分の値段を下げてはいけません」
「先生もコンサートをなさってたんですよね?」
幻のピアニストと言われている彼の舞台とはいったいどんな風なのだろうと想像しながら彼は訊いた。

「僕の場合はサロンが中心ですけどね。多い時は年に100回くらい。少なければ数回。1回の報酬はおよそ100万ユーロ。それ以下なら引き受けません。もっとも僕のファンは特殊な人が多かったからですけど……」
ハンスはさらりと口にしたが、井倉は驚いてその顔を見つめた。
(100万ユーロって、日本円に直したらおよそ1億円以上って事? そんな……コンサートってどんななんだろう。観てみたい。っていうか、そんなすごい人が目の前に……。しかも、僕の先生になってくれているなんて……何だか怖い! 怖すぎる……!)
ハンスは普通にしていたが、井倉の鼓動はどんどん加速していった。
「でも、今度、フリードリッヒとやる日本でのコンサートでは、僕は必要経費以外の報酬を受け取るつもりはありません。僕もホールで弾いてみたいし、純粋にいい音楽を聴かせたいだけなんです。お客さんも普通の人達ですから……」
(普通のってどういう意味で……?)
言い掛けたが、どんな返事が来るのか想像すると恐ろしくなったのでやめた。

「でもね、僕は自分の価値を知ってるですよ。今は報酬なんかもらわなくても、十分だって事をね。でも、君はまだこれからなのだから、自分を高めていかなければなりません。君自身の力でコンサートホールをお客さんでいっぱいにしなければいけないのです。さあ、そのためにもたくさん練習しましょう」
ハンスは自分自身はほとんど練習などしなかったと言っていたが、生徒達には練習の大切さを説いた。ピアノが技術である以上、繰り返し練習して身に付けるしか上達の方法がない事をハンスは理解していた。生徒達がそこまで上るためには練習なくしてはあり得ないのだと……。そして、ある程度基礎が身に付いたとしても、そこから先にはまた、長い道のりが待っている。表現やニュアンスはプロにとっても一生を費やす勉強なのだ。

しかし、ハンスはどうやってその時間を工面しているのだろうと、井倉は思った。いくら天才でも、まったく練習しなくて良い筈がない。どこかで必ず練習しているに違いないのだ。最近は、地下室のピアノを井倉が占領している事も多い。さすがに夜中にはベッドに戻って睡眠を取るのだが、その時間に師は練習しているのだろうか。だが、ハンスは早朝から訓練に出掛けている。それでは眠る時間がほとんどない。そんな事が可能だろうか。もし、そうだとしたら、体に良い筈がない。井倉は彼の事が心配だった。

「さあ、弾いてみてください」
「あの、アレンジの方はまだ……」
井倉が口籠もっているとハンスが言った。
「普通でいいですよ。もう本番も近いですからね。遊びはおしまい」
(遊び?)
フリードリッヒが言ってたように、あれはハンスの気紛れな思いつきだったのでは……と思うと少しばかり腹も立ったが、その練習のおかげで曲の読解が進んだ事も確かだった。井倉は黙って鍵盤を見つめ、深呼吸すると最初のフレーズを弾いた。
余計な事を考えず、装飾音を付け足す事もない。あれほどごちゃごちゃと難しく思えた音がスムーズに結び付いて楽に弾けた。

「いいですね。指の動きも滑らかになって、余裕さえ感じるじゃないですか」
ハンスが笑う。
(先生はもしかしてこうなる事がわかっていたから、あんな事をさせたのかなあ)
井倉はそんな風に思って感激した。
「それとね、わかっていると思いますが、指の長さと役割の事。それぞれに合った弾き方をしないと指を痛めるだけでなく、美しい音を奏でる事は出来ません。曲を作ったのは人間なんです。どんな人の手だって指は同じ構造をしているのです。小指に中指の役割は出来ません。他の指も同じです。均等さは大事だけれど、それぞれの個性の輝きを持って弾く事が1番です」
「はい」
その日、ハンスは饒舌で、細かな指示はもちろん、それまでヴェールに包まれていた彼のピアニストとしての一面さえ見せてくれた。それは井倉にとって貴重な時間となった。
(練習しなくちゃ……)
井倉は本番に向けて猛練習を始めた。


2週間後。再び彩香はテレビ局に向かった。2回目のピアノ対決。今回は彩香がチャンピオン席に座っている。
「どうですか? 今回はディフェンディングチャンピオンとして挑戦を受ける側になった訳ですが、自信の程は?」
司会者が訊いた。
「別に、何も変わりません。わたしとしては、いつも通りに弾くだけです」
会場を見渡せる高い席で、彼女は言った。
「おお! さすがは女王様の貫禄です。クイーンは動じる事なく、掛かって来るなら容赦はしないと高らかなる勝利宣言をしました!」
司会者の言葉に会場が沸く。

(勝利宣言?)
彼女には納得がいかなかったが、今更取り消す事も出来ず、成り行きに任せる事にした。これは、あくまでも父から頼まれた付き合いの延長なのだと割り切っていたからだ。寺田をはじめとする関係者達は彼女に対して腫れ物に触るように腰を低くして対応していた。が、番組内では、彼女を気位の高い女王様として煽っていた。実際、彼女は日本でも屈指の財閥の令嬢であり、美貌も兼ね備えていた。彼女が出ると視聴率もアップした。番組改編期を迎え、9月末には響がヨーロッパへ行くため、番組を降りる事が決まっていた。関係者としては何としてもその後を埋めるスターが欲しかったのだ。

まずは予選の模様が中継され、そこから勝ち上がった一人がチャンピオンに挑戦する。今回の曲目は、「カッコーワルツ」と「ラデッキー行進曲」。彩香は華麗にこなして再びノーミスの記録を出した。圧倒されたのか挑戦者は振るわず21カ所もの減点で彩香の2連覇が確定した。
「いや、すごいですね! これまで弾いたすべての曲でノーミスなんて……! まるでロボットのような正確さ! 果たして彼女は人間なのか。精巧に作られたアンドロイド、はたまた天から遣わされた音楽の天使なのか。どちらにしても、あまりにも人間離れした完璧な演奏でした!」
オーバーな司会者の煽りに会場も拍手喝采で盛り上がった。

――君の演奏は素晴らしい。テクニックは完璧だし、ミスがない。まるでロボットみたいに……何の感情もなく、つまらない

以前、ハンスに言われた言葉がふっと彩香の頭にフィードバックした。


「ロボットみたいって……」
収録が終り、スタッフとも別れて一人、エレベーターから降りて来た彩香が思わず口にした。
「何だ。そんな事気にしてんのか? それって褒め言葉だろ?」
先にフロアまで降りていた響が近づいて来て言った。
「裏を返せば、単調でつまらないという事ではないかしら?」
「そうかもな」
彼はストレートに言った。
「あんたの演奏は、確かに正確過ぎてつまらない。けど、この番組では、打鍵の正確さを競うだけの企画だから、今日はあんたがチャンピオンになれた。でも、情感の付け方は挑戦者の方が良かった。もっとも、あんなにミスタッチがあったら台無しだけどな」

そこはエントランスへ続く通路なので様々な人々が通っていたが、響は誰に憚る事もなく、無遠慮に言った。
「じゃあ、もし通常の速度で演奏したなら、わたしでは及ばないとおっしゃるの?」
思わず足を止めて彩香が訊いた。
「そうは言わないさ。でも、指が硬質過ぎるんだよな。お手本にはいいだろうけど……。多分、あんたの演奏じゃ、俺は酔えない」
響も立ち止まって彼女を見つめた。

「お喋りなのね」
彩香が言った。
「前には、女のお喋りは好きじゃないと言ってなかったかしら?」
「ああ。俺、自分が喋りたい方なんで……」
「勝手なのね」
「しょうがないだろ? これが俺なんだから……」
そう言うと彼はにやりと笑った。
「俺の舌であんたの指を解してやってもいいんだぜ。その頑なな心に愛のキャンドルを灯して……」
彼が彼女の肩に腕を回そうとした。

「どういうつもり? こんな衆目があるところで……」
ぴしゃりと撥ね付けて彼女が言った。
「いくら何でも……非常識だわ」
そして、彼女は響から離れて先を急いだ。
「さすが、女王様はプライドが高いや」
それでもまだ彼女に近づこうと歩を進める。
「来ないで! これ以上ふざけた事をすると人を呼ぶわよ」
彩香は彼を睨みつけた。響は一歩退いたが、まだ何か言いたそうにしていた。そこへ複数の人間が近づいて来て言った。

「響君、大胆だね? テレビ局のフロアで愛の告白?」
訊いたのは大手の出版社の腕章を付けた記者だった。
「あっは。ふられちゃいましたけどね」
響があっけらかんとして笑う。
「また、ふられたのかい? 懲りないなあ。これで何度目?」
若い男の記者が訊く。
「まだ2回ですよ。会ったのこれで2回目だし……」
その記者とは顔見知りらしく、響は親しげに会話していた。
「会う度に告白してんの? じゃあ、やっぱ、彩香さんに一目惚れしたのかな?」
「まあ。顔というより演奏にですけど……。何か彼女のピアノ聴いてるうちにハートにビビッと来ちゃったんですよね。ついでに言うなら、彼女のあまりにも硬い指先を俺の愛で柔らかくしたくなっちゃったというか……」

記者達は笑いながら響の言葉をメモしつつ、写真まで撮っていた。
「あなた方、どういうつもりですの? 勝手に撮影しないでください。わたしには関係ありませんので……」
彩香が警告する。
「え? 関係ないって事ないんじゃないかな? だって、ほら、響君、かなり本気みたいだし……。こないだのインタビューでもちゃんと答えてくれてたよ」
「インタビュー?」
彩香が怪しむ。
「うん。前回の収録の後でさ、響君、ノリノリだったんだ。これね、実は明日発売なんだけど……」
別の一人が鞄から出した週刊誌を開いて見せた。そこには、見開きで、「生方響、スタジオで愛の告白! 若き天才音楽家その恋の行方は……!」などという派手な見出しが躍っていた。

「これはどういう事ですの?」
彼女はそれを奪うと、響の前に突き出して訊いた。
「どういうって事実じゃん。俺が告白して、あんたが振った。でも、俺は諦めた訳じゃない。正直に答えただけだけど……」
響はしゃあしゃあと言う。
「困ります! 許可なく、こんな記事を書かれては……」
それには彩香の写真やプロフィールまで掲載されていた。
「困るって……。そうか。彩香さんには他に思い人がいるんだものね」
そこに居合わせた一人の記者がもっともらしく言った。

「え? 何々? そんな話訊いてないよ」
響が首を突っ込んで訊く。
「そっか。響君、例のコンクールの時いなかったんだもんね。夏の学生コンクールで彩香さんを破って優勝した男の子、えーと何て言ったっけ? そうそう。井倉優介君。彼と婚約してるって噂だけど、それって本当なの?」
「そのような事、ここでお答えする訳には参りません」
彩香はきっぱりと言って取材から逃げようとした。が、記者達は執拗に取り囲んで彼女に質問を投げ掛けた。
「お父様は反対されてると聞きましたが、彩香さんのお気持ちとしては、どうなんですか?」
「お答え出来ません」
何度断っても記者達はしつこく食い下がって来る。

「それは、肯定したと受け取ってもよろしいんですか?」
「井倉さんとは、幼なじみで、同じ大学に通っていたというだけの事です。何もないのに記事にされるのは心外だし迷惑ですわ」
記者達はざわついた。
「でも、今は家を出られて、ピアノの先生のお宅にいらっしゃるとか……」
後ろに控えていた記者がぽつりと言った。彩香はその記者を睨むと強引に前に進んだ。
「通してください」
あまりにも毅然とした態度に彼らは道を開けた。
「失礼します」
彼女はすたすたと歩いて自動扉を出ようとした。その時、響が彼女の行く手を阻んで言った。
「なあんだ。ただの噂なら、まだ俺にもチャンスがあるって訳だ。だったら、今、この場で立候補しますよ。俺と結婚してください」